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りんご研究所 Apple Research Institute
太平洋無着陸横断初飛行と
りんご研究所の関わり



ミス・ビードル号
(東奥日報社原図、りんご試保存)

 

1931年10月4日午前7時1分、アメリカの二人の飛行士クライド・パングボーンとヒュー・ハーンドンは青森県三沢村淋代海岸(現在の三沢市)から太平洋無着陸横断初飛行を目指して飛び立った。大西洋無着陸横断初飛行以来、太平洋無着陸横断飛行が残された課題であった。その初飛行には賞金約6万ドルが賭けられていた。

 

二人の飛行士
クライド・パングボーン(右)とヒュー・ハーンドン
(東奥日報社原図、りんご試保存)

 

機内の両飛行士に「日本の土産に」と村人の一人、小比類巻チヨさんは三沢の紅玉りんごを数十個手渡した。愛機の名は「ミス・ビードル号」。機体を少しでも軽くするために胴体着陸を覚悟で、飛行中に車輪を海上に切り落とすなどの危険な作業や飛行途中でのエンジン停止トラブルを乗り越える等苦難の末に、10月5日7時11分(米国時間)にアメリカワシントン州のウェナッチに無事胴体着陸した。プロペラを地面に突っ込み、少々機体を破損しながらの快挙だった(ニュース写真、ウィナッチ・デリー・ワールド)。手渡された青森りんごは飛行途中、常に二人の飛行士を勇気づけた。パングボーンは着陸を見守っていた母にその青森りんごを手渡した。

 

当時のニュース写真
(ウェナッチ・デイリー・ワールド)

 

両飛行士はその返礼として当時のウェナッチで評判の品種、リチャードデリシャスの果実を一箱、賞金提供会社の一つ、朝日新聞社宛に船便で送った。
しかし、当時、日本は防疫上の理由から既に外国産果実を輸入禁止にしていたため、横浜の税関に差し押さえられてしまった。これを知った青森県苹果試験場場長の須佐寅三郎氏は研究材料として陸揚げを懇願したが聞き入れられず、果実は返送されてしまった。

 

リチャードデリシャスの原木

 

この事情を知った町田賀芽也氏が須佐場長に「果実の代わりに穂木で導入したらどうか」と進言した。須佐氏は早速手紙を書いたところ、その穂木5本が1932年4月5日に苹果試験場に送られてきた。試験場では同年4月17日に接ぎ木式を行ってその品種を増やした。こうしてリチャードデリシャスは日米親善の重責を果たしたのである。

 

須佐寅三郎場長
(建物は当時の青森県苹果試験場:現在のりんご史料館)

 

リチャードデリシャスの接ぎ木式(1932年)

 

※リチャードデリシャス:
デリシャス品種の枝変わり(突然変異)で、デリシャスよりも縞がなく、着色濃厚。日本でも普及されたが、デリシャス系品種の衰退とともに栽培されなくなった。しかし、この品種はりんご試験場で育種母本として利用され、その子孫品種として最近では2004年にあおり15号(商標名、星の金貨)(ふじx(東光xリチャードデリシャス))が品種登録された。